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受法寺報 33号

  • 2019/05/01 13:49

納骨堂の更新についての説明会 3月9日(土)午後2時

  • 2019/03/01 16:28

納骨堂の更新についての説明会開催します。

これまでに、納骨堂を使用されていた方には案内していますが、高知で永代供養墓などをお探しの方、新たにお墓や納骨堂をお考えの方もご参加ください。

受法寺納骨堂「浦戸浄苑」は、昭和47年に竣工し47年を経て、建物や納骨壇が老朽化していますので、新たにアルミ納骨壇に入れ替えることにしました。

下記の通り、これまでに納骨壇をご使用の方には、案内しています。

1, 日時    3月 9日 (土)午後2時

2, 場所    受法寺本堂

3, 内容    

① 納骨堂工事計画について

② アルミ納骨壇の更新について

③ その他

・新規のアルミ納骨壇お申し込み(納骨壇をこれまで持ってなかった方)

 上壇        50万円 

 中壇        48万円 

 下壇        45万円 

 個別収納壇    20万1体のみ

 共同納骨    10万円 1体のみ

・ご使用中の木製納骨壇からアルミ納骨壇への更新冥加金は、別に定めています

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法話 こころのまど 死ぬのじゃのうて 生きること

  • 2019/01/15 16:18

死ぬのじゃのうて 生きること
 なもあみだぶに 生きること

死ほど、人をを不安で恐怖に落とし入れることは無いでしょう。
しかもそのことを生まれたからには、生命は有限であるので、だれでもこの問題と向かい合わなければならないのです。

そのような不安や恐怖に才市さんは、「死ぬのでは無くて生きること」
と、うたっています。

また、才市さんは、

 わたしや、幸せ、死なずにまいる、
 生きさせて参る浄土が、なむあみだぶつ

臨終で、生命としての死を迎えることになりますが、でも「わたし才市」はしあわせにもお浄土に生まれることだと。

それも、そのことが受け止められるのは、命終える時の臨終ではないのです。

お念仏を続けて、やがて来る死期に臨んで念仏を続け、臨終にやっと仏様のお迎えを得て、はじめて浄土に生れることが成就するという考え方、いわゆる臨終業成であれば、それまでは不安や恐怖です。

しかし、

平生の今、ここに、阿弥陀様の「必ずわが浄土に迎える」というお心をいただく(信心)。

これで往生浄土といういのちきわまりなき世界に生まれることがが定まり、限りある命の根本問題が解決されるのです。

遠い先の臨終まで待つことではなく、「今すぐの救い」にあずかるのです。

阿弥陀様の「いのち尽きたなら、必ずわが浄土に迎え取る」という、仏様の心に順うと、私は死なない身になったのであるから、南無阿弥陀仏にいだきとられて死ぬまで悪をつくりながらも、そのまま「生きさせて」いただき臨終でお浄土に参らせていただくのです。
 
たしかに、この世における我が身は、煩悩におおわれているあさましい身であって、仏様が迎えにくるという来迎にあずかり、お浄土に往きうまれることは、思い及ばないことでしょう。

しかし、阿弥陀如来の「必ず救う、われにまかせよ」というお呼び声は、私をとらえてお離しになられません。

この信心をいただく身は、平生の生活のうちに往生が定まっているのです。
これが平生業成であり、臨終の来迎を待つことのない、即ち今なのです。

この娑婆がそのままで浄土参りまちがいなしと、南無阿弥陀仏の上に体得して喜び、まさに平生のままに葬式すんで、南無阿弥陀仏とともにあることであります。
 
わが親鸞聖人は和讃に、
 
 超世の悲願ききしより

 われらは生死の凡夫かは
 
 有漏の穢身はかはらねど

 こころは浄土にあそぶなり

と讃ぜられ、また

 真実信心の行人は摂取不捨の故に正定聚の位に住す。
この故に臨終まつことなし、来迎たのむことなし。
信心の定まるとき往生また定まるなり。

と、仰せられています。sinunojanoute.jpg

法話 こころのまど ほとけは ここに こころに ここに

  • 2019/01/01 14:41
  • カテゴリー:ブログ

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明けまして おめでとう ございます

 

平成の最期の、元旦となりました。

 

例年は7時からとしていますが、多くの方に年の初めは 神社ではなくお寺にお参りしていただきたく、今年から10時としました。

 

初詣に神社にお参りするかたも多かったと思いますが、そこでは何かを神様にお願いすることかと、思います。

 

自分の健康や仕事、家族のことや、世界の平和であれと祈ります。

まず私が先にあって、その願いを神様に聞いていただくことです。

 

しかしお寺で仏さまにお参りすることは、私の願いより先に仏様の願いが先にありました。

今年も仏さまのみ光に照らされて、いつも仏さまのおこころをいただき、願われていたことに、気づかさせていただくのです。

 

神社とお寺でのお参りの作法も、違っています。

 

神社では、大きな鈴を鳴らして、まず柏手を打つ。

 

この作法は、まず神様を招致する、お出でてないので、起きて招くという意味があるようです。

 

よく「仏さまにお参りするときは、鐘は何回ならしますか?」

 

というお尋ねがあります。

 

しかし私たちが、鐘を鳴らそうとする前から、ここにずっとお立ちづめの、お姿で「あなたの事をいつも見守っています。」「まことの道を歩んでくださいと」願われていました。

 

私たちが休んでいて、寝ていても、仏さまは倦くことなく願われていたのです。

 

そのことに気づかせていくのが、わたしたちのお参りする姿でした。

 

さてこのたび、本願寺では私たちのちかいを、ご門主が制定しました。

 

 

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私たちのちかい

 

一、自分の殻に閉じこもることなく

穏やかな顔と優しい言葉を大切にします

微笑み語りかける仏さまのように

 

一、むさぼり、いかり、おろかさに流されず

しなやかな心と振る舞いを心がけます

心安らかな仏さまのように

 

一、自分だけを大事にすることなく

人と喜びや悲しみを分かち合います

慈悲に満ちみちた仏さまのように

 

一、生かされていることに気づき

日々に精一杯つとめます

人びとの救いに尽くす仏さまのように

 

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掲示伝道には、

 

ほとけは ここに 

こころに ここに

 

と書かせて頂きました。

 

いつも私たちの、心の中にあるのです。

 

ほとけさまは、遠いところにいらっしゃる方では無かったのです。

 

今年も私たちの幸せを願って、休むこと無くはたらいてくださっている仏さまのこころに気づかせていただきましょう。

 

今日は共にご唱和いたしますが、お仏壇に座って手を合わし、一日一回はお唱えしていただきたく存じます。

 

今年も私たちの幸せを願って、休むこと無くはたらいてくださっている仏さまのこころに気づかせていただきましょう。

 

法話 こころのまど 芋もご恩 大根もご恩  ごぼうもご恩

  • 2018/11/30 11:51

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     (有福の善太郎)

 

芋といえばサツマイモと思いだしますが、ここでは大根、ごぼうと続きますますので、真宗寺院の報恩講のお斎でふるまわれる「いとこ煮」のようです。

 

その、芋・大根・ごぼうを一つ一つ味わいながら「ご恩・ご恩・ご恩」と、感謝をして頂いている善太郎さんの姿が浮かびます。

 

わたしたちは食事の時は「いただきます」といいますが、作ってくれた人、生産してくれた人、流通してくれた人への感謝ですが、忘れてはいけないのは、動物や植物のいのちを奪って、私のいのちが今あることを忘れてはならないのです。

 

食べ物を頂くという味わいの中で、そのすべてのいのちへの感謝と慚愧の言葉が「いただきます」でした。

 

そのすべてをご恩と感謝していただく中で、生きているなかで多くのいのちのお陰で今の私があるという自覚をもち、私にかけられた仏様の願いの中にあったと気づかせていただくのです。

受法寺報 32号

  • 2018/11/10 15:18

一面

信心をいただく 報恩講

本願寺第三世であり、 親鸞聖人のひ孫である 覚如上人は、『改邪抄(がいじゃしょう)』で、 「某 ( それがし )  親鸞 閉眼せば、賀茂河にい れて魚にあたふべし」 「自分が息を引き取っ た後は、賀茂川に自ら の亡骸を投棄して、そ こに棲む魚たちの餌に してくれればよい ・・・」 と記されています。  

この頃の民衆は、山 に埋葬したり川に流す のが一般的でした。聖 人もまわりの方を慮っ て、何も特別なことを しなくてもよい。この 肉体に執着して、その あとのお骨にも執着す べきではない。賀茂川 に流して、魚に与えてもよいというお心でし た。  

しかし遺された門徒 は、粗末にならず、ご 遺徳をいつまでも偲び たいという心からご遺 体を荼毘 ( だび・火葬 ) に付し、石塔を建て遺 骨をおさめました。当 初の聖人の墓所はきわ めて簡素なものであっ たため、ご遺骨を移し 六角のお堂を建てて、 廟堂 ( びょうどう ) と され、後に私たちの本 山である本願寺へと発 展しました。

 信心を本とすべき

 『改邪抄』で続けて 「これすなはちこの肉身 を軽んじて仏法の信心 を本とすべきよしをあ

らはしましますゆゑな り。これをもつておも ふに、いよいよ喪葬 ( そうそう ) を一大事 とすべきにあらず」  喪葬は死者を喪(ほ うむ)り弔うことで、 葬儀ですが、このこと を一大事とすべきでな いと言われています。 それよりも大事なこと は、まず信心でありま す。喪葬の儀礼を一大 事、まず第一に考える のでは、信心を頂く、 仏法聴聞が大事ですよ との親鸞聖人の御遺言 と頂くばかりです。  私たちの葬儀やご法

事も、亡くなられた方 を偲びつつ、お経を通 して信心をいただくこ とを大切にしてくださ いという聖人のお示し です。  本山は一月一六日の 御命日を縁に七昼夜勤 め、聖人のご遺徳を偲 び、そのみ教えを聞き 開き、信心をいただく ことを大事にしていま す。

本願寺の末寺である 受法寺でも、本山と重 ならないようにと「お取り越し報恩講」とし て勤めますので、皆様 もお参りください。

報恩講 

  日時 十二月六日(木)  朝十時 昼二時       

   お斎を用意します

 法話 坂上 晃順 師

     本願寺派布教使 大阪府 

 

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法話 こころのまど 信心は 阿弥陀様から いただく

  • 2018/10/19 14:02

DSCF0225sinjinnha.JPG信心は 阿弥陀様から いただく

2018年10月18日

10:55

「私が、信心する」

 

確かに信ずる心が起こるのは、自分の中で起こったことです

 

ここでは「自分がする信心」「私がする信心」は、私が起こした信心です。

 

私を根拠として自分中心であるかぎり他人ことを考えているのではなく、自分にとって都合の悪いものははねつけて、拒絶してしまいます。

 

また、自分というのは、常に変わっていて、移ろいやすい。

昨日は好きであったものも、今日は嫌いとなっています。

 

親鸞聖人は、阿弥陀様の願いを聞いてうまれる信心を、

 

「信心と言うは、すなわち本願力回向の信心なり」

と阿弥陀様のはたらきによって、与えられるとおっしゃっています。

 

「自分がする信心」ではなく「阿弥陀様からいただく信心」であると

 

阿弥陀様は、阿弥陀如来。

「如」という真実の世界からから「来」たという意味です。

 

真実が根拠となっているのです。

 

そして

信心はすなわち一心なり

一心すなわち金剛心

金剛心は菩提心

この心はすなわち他力なり

  「高僧和讃」「天親讃」

 

と天親菩薩の一心から、親鸞聖人はこの信心は「金剛心」は、ダイアモンドのように決して壊れることのない真実の信心であると頂きました。

 

私という不確かで移ろいものを根拠とするのではなく、どこまでも阿弥陀様から頂く信心でした。

法話 こころのまど 先に生まれん者は 後を導き

  • 2018/09/20 09:46

sakiniumarenn1.JPG七高僧の一人、道綽禅師の『安楽集』から。

 

 

この娑婆世界においても、人生の先輩は後輩を導くものですし、後輩は先輩の跡を訪ね、その足跡に学んでいかねばなりません。

 

新しい職場に入ったときには、職場の先輩に仕事を進めて行くにはどうしたらよいか、まず先輩に尋ねます。

 

昔は徒弟制で、細かい仕事の内容を先輩は教えてはくれません。

 

そこで新しく道を尋ねる者は、先輩や師匠のの後をおって、文字通り「尋ねる」のではなく、「訪ねる」、ひたすらに仕事に対する技術や方法だけでなく、姿勢も含めて後を追っていくことになります。

 

 ここで『安楽集』に述べられる「前に生まれんもの」は、この世に先に生まれた者の娑婆世界に生まれるというだけではなく、お浄土に先に生まれる者のことです。

 

 

先に浄土に往生する者は、後の者を導いておられるのです。

 

そのことを後に残った私たちは、お浄土から私たちは、先の方を弔い、訪問するのでしょう。

 

そこでお葬式があってお盆があって、年忌法要などを勤めているのです。

 

後から浄土に往生しようとする者は、先立った方がたの、み跡を慕い、そのことによって、浄土往生を願う願生心が、縁ある人びとの導きによりながら、脈々と受け継がれていくのです。まさしく、法は人を通して伝わっていくということでしょう。

 

愛しい人やかけがえのない人をなくした時、人はみな、悲しみの淵に沈みます。

 

そして、その悲しみは簡単に癒えることはないのですが、何故かお仏壇に足繁く向かうようになれたのは、先立った愛しい人の導きによるものです。

 

「あなたのおかげで仏さまに手を合わす身になれました」

 

私たちはここで手を合わし、南無阿弥陀仏とお念仏させていただいています。

法話 こころのまど 

  • 2018/09/06 14:06

私のいのちは 無量寿の世界に 帰るのです

2018年9月5日

16:22

四十一歳で三人のお子さんを残し、癌で亡くなった平野恵子さんの『子どもたちよ、ありがとう』の中から。watasinoinochi.JPG

 

無量寿とは、阿弥陀如来そのものであり、およそこの世に存在するすべての。いのちの真実の姿、全宇宙の実相であります。

お母さんは無量寿の世界より生まれ、無量寿の世界へと帰ってゆくものであります。

何故なら無量寿の世界とは、すべての生きとし生けるもの達の。いのちの故郷。そして、お母さんにとっても唯一の帰るべき故郷だからです。お母さんはいつも思います。与えられた平野恵子という生を尽し終えた時、お母さんは嬉々として。いのちの故郷へ帰ってゆくのだろうと。

人は、その死と共にすべての苦しみ、悩み、悲しみ、怒り、恨みからも解放されるものです。

 

そして、空気となって空へ舞い、風となってあなた達と共に野山を駆け巡るのだろうと。緑の草木となってあなた達を慰め、美しい花となってあなた達を喜ばせます。また、水となって川を走り、大洋の波となってあなた達と戯れるのです。時には魚となり、時には鳥となり、時には雨となり、時には雪となるでしょう。

 

 

無量寿のいのちとは、すなわち限りない願いの世界なのです。

そして、すべての生きものは、その深いいのちのねがいに支えられて、生きているのです。だからお母さんも、今まで以上にあなた達の近くに寄り添っているといえるのです。

 

悲しい時、辛い時、嬉しい時、いつでも耳を澄ましてください。お母さんの声が聞こえるはずです。「生きてください、生きてください」というお母さんの願いの声が、励ましが、あなた達の心の底に届くはずです。

お母さんは、やがてあなた達の南無阿弥陀仏となります。

 

由紀乃ちゃんが、生まれた時よりお母さんの仏様だったのです。

 

この十七年間、由紀乃ちゃんはいつも「お母さん頑張って」「お母さん生きてちょうだいと励まし続けてくれました」。

 

そのお陰で、お母さんは貴いいのちの願いに気付かされたのです。

 

お母さんは死を通してのみ、あなた達の南無阿弥陀仏となることができるのです。

 

素行ちゃん、素浄ちゃん、大きくなって、強く、たくましい男性になってください。

そして一切が、支えられて存在することができたのだという、いのちの真実に目覚めてください。

どうか、そして無量寿という言葉を、どうぞ忘れないでください。

 

平野恵子『子どもたちよ、ありがとう』 (抄出)

 

 

阿弥陀如来とは無量寿如来。

 

その意味は「永遠の生命」「限りない存在」とでも訳せましょうか。

 

寿は、いのち。

 

色もなければ形もなく、匂いもない。それは、永遠なる長さであり、測ることのできない重さであり、限りない深さなのです。

 

私たちは限りのある命、長生きしてもそこには限りがあります。

 

しかし阿弥陀如来は無量寿のいのち、限りが無いのです。

 

その阿弥陀如来の願いに、私の命は支えられ、限りある命が尽きたときに、無量寿の世界に帰るのです。

法話 こころのまど 「抱かれてありとも 知らず」

  • 2018/08/03 13:18

idakarete.jpg 

おろかにも

われ反抗す 大いなる み手に

    

幼児が母のふところに抱かれて、乳房を哺くんでゐるときは、すこしの恐怖も感じない。すべてを托しきって、何の不安も感じないほど、遍満してゐる母性愛の尊きめぐみに、跪かずにはをられない。

 

しかも多くの人々は、何ゆゑにみづから悲しむのであらう。救ひのかがやかしい光のなかに、われら小さきものもまた、幼児の素純な心をもって、安らかに生きたい。大いなる慈悲のみ手のまゝ、ひたすらに久遠のいのちを育みたい。――大いなるめぐみのなかに、すべてを托し得るのは、美しき信の世界である。

 

(大谷嬉子『九条武子 無憂華抄』

浄土真宗本願寺派仏教婦人会総連盟)

 

 

私の生老病死の苦悩に寄り添って、決して捨てることはないと誓われた阿弥陀様が寄り添っていました。

 

親鸞聖人は『浄土和讃』の「弥陀経意」に

  十方微塵世界の

  念仏の衆生をみそなはし

  摂取してすてざれば

  阿弥陀となづけたてまつる   

(註釈版聖典571ページ)

と、阿弥陀さまをご讃嘆されています。

 

ほとけさまは、どのような小さいいのちであっても決して見逃すことはありません。

 

摂取とは、おさめとること。

 

阿弥陀さまの光明の中に、すべての衆生を包み込んで下さるはたらきです。

 

不捨は、文字通り捨てないことです。

 

 また「摂取」の左訓で「摂はものの逃ぐるを追はへ取るなり」と述べられています。

 

ほとけさまは、すべてのいのちを、もちろんこの私のいのちをも、同体のようにわがいのちとしています。

わたしが反抗すればするほど「たのむから、私の願いを聞き止めてくれ」と追いかけ、ますますしっかりと抱きとって下さるのです。

 

「いくらたのんでも聞ないならなら、放っておくぞ」と捨てられるようなことは、決してないのです。

 

その阿弥陀様の摂取不捨のこころが、南無阿弥陀仏の念仏となってとどいていました。

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