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2018年08月の記事は以下のとおりです。

法話 こころのまど 「抱かれてありとも 知らず」

  • 2018/08/03 13:18

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おろかにも

われ反抗す 大いなる み手に

    

幼児が母のふところに抱かれて、乳房を哺くんでゐるときは、すこしの恐怖も感じない。すべてを托しきって、何の不安も感じないほど、遍満してゐる母性愛の尊きめぐみに、跪かずにはをられない。

 

しかも多くの人々は、何ゆゑにみづから悲しむのであらう。救ひのかがやかしい光のなかに、われら小さきものもまた、幼児の素純な心をもって、安らかに生きたい。大いなる慈悲のみ手のまゝ、ひたすらに久遠のいのちを育みたい。――大いなるめぐみのなかに、すべてを托し得るのは、美しき信の世界である。

 

(大谷嬉子『九条武子 無憂華抄』

浄土真宗本願寺派仏教婦人会総連盟)

 

 

私の生老病死の苦悩に寄り添って、決して捨てることはないと誓われた阿弥陀様が寄り添っていました。

 

親鸞聖人は『浄土和讃』の「弥陀経意」に

  十方微塵世界の

  念仏の衆生をみそなはし

  摂取してすてざれば

  阿弥陀となづけたてまつる   

(註釈版聖典571ページ)

と、阿弥陀さまをご讃嘆されています。

 

ほとけさまは、どのような小さいいのちであっても決して見逃すことはありません。

 

摂取とは、おさめとること。

 

阿弥陀さまの光明の中に、すべての衆生を包み込んで下さるはたらきです。

 

不捨は、文字通り捨てないことです。

 

 また「摂取」の左訓で「摂はものの逃ぐるを追はへ取るなり」と述べられています。

 

ほとけさまは、すべてのいのちを、もちろんこの私のいのちをも、同体のようにわがいのちとしています。

わたしが反抗すればするほど「たのむから、私の願いを聞き止めてくれ」と追いかけ、ますますしっかりと抱きとって下さるのです。

 

「いくらたのんでも聞ないならなら、放っておくぞ」と捨てられるようなことは、決してないのです。

 

その阿弥陀様の摂取不捨のこころが、南無阿弥陀仏の念仏となってとどいていました。

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