法話 こころのまど 死ぬのじゃのうて 生きること
- 2019/01/15 16:18
死ぬのじゃのうて 生きること
なもあみだぶに 生きること
死ほど、人をを不安で恐怖に落とし入れることは無いでしょう。
しかもそのことを生まれたからには、生命は有限であるので、だれでもこの問題と向かい合わなければならないのです。
そのような不安や恐怖に才市さんは、「死ぬのでは無くて生きること」
と、うたっています。
また、才市さんは、
わたしや、幸せ、死なずにまいる、
生きさせて参る浄土が、なむあみだぶつ
臨終で、生命としての死を迎えることになりますが、でも「わたし才市」はしあわせにもお浄土に生まれることだと。
それも、そのことが受け止められるのは、命終える時の臨終ではないのです。
お念仏を続けて、やがて来る死期に臨んで念仏を続け、臨終にやっと仏様のお迎えを得て、はじめて浄土に生れることが成就するという考え方、いわゆる臨終業成であれば、それまでは不安や恐怖です。
しかし、
平生の今、ここに、阿弥陀様の「必ずわが浄土に迎える」というお心をいただく(信心)。
これで往生浄土といういのちきわまりなき世界に生まれることがが定まり、限りある命の根本問題が解決されるのです。
遠い先の臨終まで待つことではなく、「今すぐの救い」にあずかるのです。
阿弥陀様の「いのち尽きたなら、必ずわが浄土に迎え取る」という、仏様の心に順うと、私は死なない身になったのであるから、南無阿弥陀仏にいだきとられて死ぬまで悪をつくりながらも、そのまま「生きさせて」いただき臨終でお浄土に参らせていただくのです。
たしかに、この世における我が身は、煩悩におおわれているあさましい身であって、仏様が迎えにくるという来迎にあずかり、お浄土に往きうまれることは、思い及ばないことでしょう。
しかし、阿弥陀如来の「必ず救う、われにまかせよ」というお呼び声は、私をとらえてお離しになられません。
この信心をいただく身は、平生の生活のうちに往生が定まっているのです。
これが平生業成であり、臨終の来迎を待つことのない、即ち今なのです。
この娑婆がそのままで浄土参りまちがいなしと、南無阿弥陀仏の上に体得して喜び、まさに平生のままに葬式すんで、南無阿弥陀仏とともにあることであります。
わが親鸞聖人は和讃に、
超世の悲願ききしより
われらは生死の凡夫かは
有漏の穢身はかはらねど
こころは浄土にあそぶなり
と讃ぜられ、また
真実信心の行人は摂取不捨の故に正定聚の位に住す。
この故に臨終まつことなし、来迎たのむことなし。
信心の定まるとき往生また定まるなり。
と、仰せられています。